〜外国への恐れとあこがれ(商館時代)U〜

横浜海岸「タイム・ボール」
1884年に設定されたグリニッジ標準時に従って、海上の船舶も出港時、標準時をセットした。左は、横浜港に設けられたタイム・ボールと言われるもので、毎日午後1時に球が柱の上に引き上げられて落下する。これを合図に、船のクロノメーターの時刻を調整するのである。聴覚より視覚によるほうがより正確であるという理由でこのような方法がとられたという。以下は、こんな時代に、船で日本にやって来た時計達である。(←絵葉書1910年頃『横浜海岸』)(参照:角山栄『時計の社会史』)
商館時計(ドイツ商館) F.RETZ&Co.(レッツ)0800銀

レッツは、シュワルツ商会の出身で、1875年の創業。長らく個人商であったが1889年からレッツ商会となり、1899年からは合資会社となっている。レッツ商会は、明治7年に横浜居留地51番に、その後、明治10年に80番、13年から大正まで214番と、横浜が中心です。一般的にドイツ商館は、神戸に多かったとも聞くが、レッツはそのような歴史です。裏ブタマークのこの蝶なのか蛾なのか、それに矢が刺さったレッツの独特のマーク。ムーブメントは、コロンと同じものであ
るが、ムーブメントにF.Retz&Coと刻印してある。当時のスイスは、手工業に近い分業制で、スイス工房において、注文に応じて、刻印なども自由に打てた。おそらく、コロンとは同じ工房で作られたのだろう。ちなみに、また私のケース番号は、77270で、その左側に、王冠のようなマークに13の印が打たれ
ています。レッツのケースに多く見られる特徴で、おそらくそれが、スイスのロックル地方かニューシャテルかの、ケースメーカーの印ではないかというのが、大川氏の見解です。ただし、多くは、レッツはジュネーブ製、またブルウルはショードフォン製、コロンはニューシャテル製である。
ちなみに、レッツに限らず、シリアル番号から年代を特定するのは、なかなか難題のようです。大川氏にお聞きしたところによれば、結局、特定の出来る時計(例えば、箱付で、その箱に、工場の歩度表が入っていて、その日付を見て、その番号から推測するという気の遠くなるような調べ方になろうかと思います。他に、たとえば、国ごとには、大体の輸入量がわかりますので(メーカーによっては、資料が残っているものもあるようだが・・・)、ドイツ全体とか、スイス全体とかの輸入量で大体を判断することは出来ますが、ドイツ商社だけで、5つ以上はありますから、なかなかです。何か方法がありますでしょうか。ちなみに、文字盤から推測する方法を、大川氏は、『世界の腕時計』36〜38号あたりで、詳しく書かれているので参考に出来ます。たとえば、秒も分もすべて手書きであれば、最も古く、明治15年頃にまでさかのぼり、分表示が印刷でそれ以外が手書きであれば、明治20年くらい。また提げ環については、丸つば環があるのは、明治25〜30にもっとも多く見られるかたち・・・というような具合です。以上、すべて、大川さんの研究の成果です・・・興味のある方は、是非ご参照下さい。(右:横浜居留地214番レッツ商会『日本繪入商人録』横浜開港資料館蔵)
レッツは、横浜外人墓地の墓地委員として16年間運営に携わり、ドイツに帰ることなく自らも外人墓地15区に埋葬され、日本に骨を埋めた。
商館時計(ドイツ商館) “謙信洋行”“China Export-Import&Bankicompagnie”


外国商館でありながら、「謙信洋行」という東洋(おもに中国)を意識した、変わった名も持つ商館である(明治41年に、服部時計店が、中国の上海市の謙信洋行に駐在員を派遣し、販路拡大をめざしたという記録がある。その時、服部時計店がつけた出張所の名が、「服部洋行」。)。ドイツの大手総合商社で、1859年に広東でヘッセ・エーラース社として誕生した会社である。1883年にヒーナ・エキスポート・インポート・ウント・ブリューニング社(現在のヘキスト社)の染料の日本総代理店となり、他のドイツ商館と同じく、最初に神戸に商館をもうけた(1893年神戸居留地17番。1900年横浜。)。大半が、スイスのラ・ショードフォンのCorvoisier Freres(クルボアジエフレール)という時計製造工場から輸入した。また、この商館は、懐中よりも、ユニコーン(角のある馬)マークの置き(掛け)時計としてのほうが、よく知られているのではないだろうか。懐中の商標は、これ以外に、「利達亭」、鳳凰、ひまわり?マークなどがある。時計を扱ったドイツ商館は、「レッツ」、「謙信洋行」以外に、モルフ、L.クニフラー、カール・ローデ、A.エストマン、E.シュワルツ、ウォルシュ(1889年〜。1904年からは、ベルグマン商会と改名。大震災後は横浜から神戸に引き上げる。)などがある。
ムーブメントについては、石はシャトン止めで、仕上げもキレイだ。
商館時計(ドイツ商館) “カール・ローデ商会” CR&CO 702897 0800銀

幕末のドイツの大手商社の、L・クラウニーとシュルツ・ライツ社のうち、シュルツ・ライツ社の後を継いだのが、カール・ローデ商会である(明治7年 1874年設立:横浜居留地23番→12番→70番)。ローデは1869年に来日し、アーレンス商会とベッカー商会と共に染料輸入3館と呼ばれ、染色産業にも影響を与えたが、時計に関しては、日清戦争あたりからである。よって、他にも軍人が日章旗を持って走っている商標もあり、軍国調である。時計は、ニューシャテルのタバン社製が多く見られる。(大川『商館時計蒐集奇談』)
日本人には、その商館が、「赤門70番」と呼ばれ親しまれた。
また、カール・ローデは、一度、1891年(明治21年)に日本を去り、当時ドイツ領であった青島で活動したが、青島が日本に占領され、彼は日本軍の捕虜(数ヶ月間)となって再び日本に連れ戻される格好となった。(実は、この青島の占領については、逸話がある。大正3年、第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツの租借地であった青島を攻撃し、約4700人のドイツ兵を捕虜として日本各地の収容所に送った。特に、このうち四国の徳島、丸亀、松山にいた約1000人が大正6(1917)年から同9(1920)年までのほぼ3年間を、鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)の板東俘虜収容所で過ごすことになった。この収容所では、松江豊寿所長が、俘虜たちの人権を尊重し、できるかぎり自主的な運営をみとめたため、自由で快適な収容所生活を楽しむことができたという。また、学習、講演、スポーツ、音楽、演劇など文化活動も盛んで、ベートーベンの「第九」が日本で初めて演奏されたのも、ここ板東俘虜収容所だという。)
もっとも、この時計にみるような軍国色の強い商標のものは、カール・ローデが再び日本に連れ戻されて後ということではなく、明治30年から31年までに商標登録されたもので、日清戦争(明治27〜28)後の戦争高揚期のものと位置づけられるだろう。
商館時計(ドイツ商館) “L.クニフラー商会(L.Kniffler
&Co)=C.イリス商会”
1859年に来日したドイツ人L.クニフラーのイリス商会は、現在に至るイリス家の大手総合商社としてその名が知れている。当初、ギルデマイスターが長崎から横浜に移住して1868年まで営業するが、彼の帰国にともなって、イリスが横浜事業所の支配人になった(『横浜居留地と異文化交流』:横浜開港資料館編)。経営権が正式に移ったのは、大川氏によれば1880年とする。なお、1861年に横浜店は開設されている。この時計のP.Fは、ポール・ファーブルの略で、スイスのル・ロックルの製造会社の名である。明治19年頃から扱い始めたと思われる。ただし、現存するものは、大川氏によれば、せいぜい明治30年くらいまでのものがほとんどで、扱い
期間は10
年くらいと見られるようだ。またいささか複雑な話になるが、当時の広告等を参照すると、この十字や馬印の商標は、ドイツのH.アーレンス(H.Ahrens&Co)商会(江戸築地42番開業 1871年)のもので、このアーレンの死(コレラ 1886年明治19年 44歳)によって、クニフラーの会社を譲り受けた後、イリス商会がこの商標を引き継いだと思われる(大川氏)。
なお、アーレンス商会は、アーレンス死後もアーレンス継続社という名で、1945年まで続いた会社であって、ドイツ系商社の中で明治期もっとも成功した商館だった。アーレンスは日本語が得意で、通訳抜きで直接商取引できたという。(『横浜居留地と異文化交流』)
商館時計(ドイツ商館) A・エストマン商会 “A-OESTMANN&Co.”(スイス商館)


A.エストマンは、1870年3月1日発行ジャパン・ヘラルド・ディレクトリーに、横浜54番Lクニフラー商会の社員として出てくる。エストマンは、1875年から1878年まで神戸支店に転勤し38番の兵庫ガス会社の役員になった。その後、1882年に当地、神戸で独立し、ハンブルグ、ブレーメン火災保険会社代理店となった。その後、1887年に横浜168番Aにクニフラー商会で修行を積んだ身内(弟?)のC・エストマンに、横浜店を開業させた。1888年74番A、1911年196番に移転。時計は、明治25年(1892年)頃から扱ったようだ。カール・ローデと同じく、スイスのラショードフォンのタバン社に製造を依頼した丈夫な時計が多い。商標は、王冠印と、このライオン印の2種。カタカナ名が入ったものもある。実用本位の安価品を多く扱った。しかし、この時計は、比較的高品位のものである。(by 大川氏『世界の腕時計』)
商館時計(アメリカ商館)D.M.B.&Co.(ブルウル兄弟商会 BRUHL
BROS &Co.)0800銀

ムーブメントは15石のアンクルで石受けも素晴らしく、石も大きい。豪華な機械だ。また、秒、分などの表示が手書きで、明治20年頃の特徴を示している。裏ブタに、D.M.B.Coとあり、明治21年(1888)のディレクトリーの横濱の欄24番AにD.&M.BRUHL&Co.とはじめて出てくるとのこと。ただし翌年、同じ欄で修正され、
P.BRUHL,HENRY BRUHL PARISとなり、PをDに、HをMに間違えて登録されたのではと、推測される。とすると、この裏ブタの表記は、明治21年までの日本での表記なのか(この時計の出所がわかっていて、伝え聞くところによると、埼玉
県武蔵国秩父郡石間村で1860年に生まれたA氏のもので、また、明治18年2月に、横浜あたりで日本で最初の木版聖書を買い求めている事もわかっている。ここは自由民権運動の中、農民が蜂起した、明治17年の秩父暴動の舞台であり、進取の気鋭さかん
な頃の意気を感じる物である。また、ひ孫の方の話によれば、このA氏は、秩父事件の際、陰で火薬を作って渡していて、投獄されたとも。また、この時計のネジを巻いていたのを子供心に覚えているとも。秩父事件の終息した翌年18年、聖書と、この懐中を手に入れたのであろうか。)?さて、このブルウル兄弟商会は、服部金太郎との関係が深かった商社である。Pブルウル氏とヘンリーブルウル氏はアメリカ人の兄弟であるが、本社をパリに定め、日本とニューヨークに支社を置き、日本では、神戸と横浜を拠点に明治36年まで営業した。(他にブルウル商会のものとして例えばこのような商標の物もある。多種多様だ。→文字盤は「The Jockey」)。アメリカ商館は、他には、「米国貿易商会」があり、ウォルサムなどの米国製時計などと、代理店契約を結んで販売した。


以下は、ブルウル兄弟商会の中でも、また商館時計としても、高級なものである。”Ancre” “Spiral Breguet 1 Chaton” “29 Rubis” “Bruhl Freres” “Chaux-de Fonds” “No.100110”“10K”)ハンターケース(10金無垢)
このBruhl Freres表記は、当時からよく見られる(Freres:フランス語の「兄弟」の意味)。葡萄の商標は、数あるブルウルの商標の中でも代表的なものである。非常に珍し
い
29石表記(未確認)、側は10金無垢で、当時の商館時計では高級な部類のものである。
(←左の2枚のシールは、ブルウル兄弟商会の商標シールである。いずれも昆虫をあしらったブルウルらしいデザインである。)
商館時計(フランス商館)Etablissements-Orosdi-Back ヲロスヂーバアク商会 0800銀 214955


めずらしいハンターケース(文字盤側にもフタがあるかたち)で、石はルビーカットしてある。こんな豪華な機械を私は初めて見た。大川氏によれば、レッツ商会が取引していたフリッツ・デニー社の製品のようで、この製造会社は、大量生産をせず、良い仕上げのものが多いとのこと。干支は、秒、分などの表示は印刷で、針も新しいかたちで、それは、新しさを表しているが、大きさが55ミリと大きいことから、そうそう新しい時代ではないと思う。ヲロスヂーバアクの創業は明治28年で、明治36年まで営業(現在もパリ本店が存在)であるから、まあ明治30年代か?特許庁の商標登録を見ると、ごく初期に登録しており、堅実な商館であったことが想像できる。(by大川氏)フランス商館で時計を扱った商館としては、ほかにオッペネメール兄弟商会がある。
ムーブメントに施されている模様は、コート・ド・ジュネーブ(波形模様)と言われる模様である。
商館時計(フランス商館)Openhemer
Freres オッペネメール兄弟商会 0800銀 8796-1

和式の朝廷風の装束の騎士が馬に乗る商標の下にImperatrice Jingo(仏語:愛国の女帝empress ジャンヌダルクのイメージ?)とある。シリンダー脱進機。フランスの時計扱い商館としては、2社確認されているが、一つは、ヲロスジーバアクで、もう一社がこのオッペネメールである。横濱居留地71番館(後に、186番。神戸28&32番など)。1875年には既にその存在が確認される。Jオッペネメール&Mオッペネメール兄弟(後に、フランス人でウィトフスキー商会の経営にあたったヘンリ・ブルームなどが加わった)によってはじめられた。ただし、時計の扱いは、明治20年代からと思われる。商標としては、より小さいモデルに、鶴数匹舞の商標が2種他に確認されるのみ。高級品とされたコロン商会の刻印を打って、売っていたのではないかと思われるものが発見されており、また明治の後期からは刻印自体を打つのをやめてしまった事も予想され、どうにも、あまり良い想像をする事の出来ない商館であるようだ。(参照:大川氏『商館時計蒐集綺談』)
このムーブメントについても、シリンダー脱進機、素材も芳しくなく仕上げも悪い。
商館時計(不明 イギリス?) 燕マーク0800銀 800 M 7587 (スイス鳥マーク銀 英国ライオンマーク銀 ロンドンマークと判別不明の年代マ
ーク:1870年代?)

裏ブタの、このツバメのマークによって商館を特定する事が現在できない。裏の数字は、比較的若い数字で、文字盤は、秒、分表示共に手書きで、紐止め管もなく(明治20年以降の特徴)、これは明治15年頃の特徴を示すものである。マークだけでは商館が特定できないものはかなりある。なお、この時計には、裏ブタに、ツバメマーク以外に、商館時計のほとんどに見られるスイスのホールマーク(銀を示す鳥のマーク)と共に、めずらしくイギリスの“The Standard Mark(ライオン右向き:金属のクオリティーの保証マーク)”“The Assay Mark(イギリスの金属鑑定のオフィスがあった地名マーク。この場合、ライオンが正面を向いた「ロンドン」マーク)”と、そのロンドンの“The Date letter
Mark(これで、年代がわかる。1870年?・・・半分潰れていて特定出来なかった。)”がついている。すわ、英国商館のものか?とも考えたいところであるが、例えば、ドイツ商館などにもみられ、ケースを英国で発注し、スイスで機械を入れたというところだろう(レッツの商標にセミのマークがあってセミか?とも考えるが、レッツ商標のセミの形は、まったく別物である。)。というわけで、今のところ「不明」である。
商館時計(商館不明 スイス製造)“ジャック・ウルマン製造会社製”(J・Ullmann)0800銀


その時計を扱った商館が不明である典型的な例。J・Ullmann製造会社のものである(ただし、このムーブメントは入れ替わっているかも知れない。)。この乗馬マークや龍マークなどのものには、J・Ullmann銘が、機械に彫り込んである場合が多いという。ただし、このジャック・ウルマンは、あくまで製造会社であって、日本にある商館名ではない。似たような名で、M・ウルマンがあるが、この商館はすでに明治10年に消滅しており、この時計の文字盤等から推測される年代(明治後期)にはあわない。大川氏は、とにかく商館が特定できないという。ちなみに、J・Ullmann製造会社は、スイス、ラ・ショードフォン市(登録:ラ・ショードフォン市ダニエル・ジャンリシャール町16番地)に、1893年創業。おもに、中国に輸出したという。(引用:『世界の腕時計』大川氏「商館時計蒐集奇談」)
商館時計(商館不明 スイス製造)“グスタフ・ペルヌー製造会社製”(Gustave Perrenoud)


これも、扱った商館は不明であるが、スイスのラ・ショードフォン市のグスタフペルヌー社のものである。ライオンや跳ね馬などにGPの刻印があり、また、文字盤に、“Patent”,ムーブメントにスイス十字にパテントナンバー(10875)を打ってあるのが特徴である。このパテントは、(みせかけの)飾り石の特許らしい。たしかに見えるところの石はすべてルビーカットしてある見事なものである。
商館時計(商館不明 吉沼時計店 or 服部時計店 スイス:高台社製造) 月鳥印“GALLET&Co.”171863


吉沼時計店が、各外国商館から、欧米の製品を仕入れて販売したが、その吉沼時計店が、ラ・ショードフォンの高台社(コウダイシャ)の月鳥印の時計を扱った。これがその月鳥印の懐中である(吉沼時計店廃業の明治37年まで取り扱い)。ただし、明治32年(4月13日)に、服部時計店が、この月鳥印を商標登録しているので、これは、服部時計店取り扱いでもあった。吉沼時計店と服部時計店が友好関係にあったのだろうか?
服部時計店がこの月鳥印を輸入した時には、ブルウル兄弟商会が介在したことが想像される。この懐中に関しては、ケース形状のいかにも精密なあたり、また、多少鉄さびが出ており、粗銀が使われているあたり、今までの経験では、精工舎取り扱いのハッピータイムにも似ており、精工舎取り扱いのものなのだろうか?明確ではない。
なお、この懐中には、ムーブメントに特徴があり、勾玉緩急針に巻き上げヒゲゼンマイである。
商館時計(無名)銀合金(スズとの合金?Brass?)
無名。機械にも裏ブタにも文字盤にも一切メーカー名がない。裏ブタにわずかに番号があるのみ。シリンダー脱進機。文字盤、針も完品で
奇麗。ケースは、ニッケル。ケースに印はなく、機械は、タイムキーパーによく似たシリンダー。文字盤は印刷で、明治30年前後の特徴。精工舎は、明治26年に柳島(墨田区)に工場を移ってから、外国のムーブメントを輸入し、自社でケースを造り、外国製として売っていた。前年には、大阪の時計商山田伊兵衛もケースを制作している。ケースは、ウロコ模様があり日本製の特徴を備えており、そのような国産黎明期に、明治30年当時、日本で懐中を手がけていた大阪時計か、精工舎のどちらかあたりが売った物か?金時計と銀時計は、明治29年から50%及び40%もの税金を課しているので(前年までは、30&25%)、真鍮製は価格の点で有利であった。真鍮製と言えば、明治20年、工芸展に自作の真鍮側懐中を大野徳三郎が出品している。明治31年か
らは、根津時計(「根津時計の商標といわれる“N.W.Co.”は、大阪時計と確認されている。」:大川氏)がアンクル式の懐中時計
を製造。懐中の分野では、明治の終わりにかけて、精工舎がほぼ独占状態となるので、精工舎がスイス製シリンダームーブメントを組み込んで売り出した物か?こうした無名のものは、まあまあ見いだされるので、小さな商館が、発注の際、スイスの工房で無名のものを作ったとも思える。色々書いてきたが、結局、スイス工房のものである可能性も。(右→コロンのマークに似た懐中用皮ケース “YAMAMOTOS”山本商店?裏にKIOTO:京都)
→(右)『明治24年 池田忠兵衛(時計店)時計領収証』東京日本橋にあった池田忠兵衛時計店の領収証である。弁慶のような武士が懐中時計を抱えている赤い判が面白い。
〜参考〜
懐中日時計

江戸の終わりから明治にかけて流通したといわれる携帯の日時計である(磁石の表示からするとこれは、明治のものと思われる)。フタには、各県における時間表示の差違が記載されている。実際に信州あたりで計ってみたが、10分前後の狂いしかなくてビックリ!懐中時計がまだ高嶺の花であった時代の庶民の携帯用時計である。
(右:横濱海岸方面全景1899年8/19のサインがある:絵葉書の歴史は案外浅く、イギリスで私製絵はがきが自由に売られるようになったのは1894年。そのころからヨーロッパでは絵はがきの収集が流行した。初期のものは裏面にあて名以外を書くことができず,絵の面に通信文用の余白を残さなければならなかったが,1902年イギリスで初めて裏面を二分した絵はがきが許可され,他の国々がこれに続いた。日本では1900年に私製はがきの発行が認められたのが始まりで,1902年には万国郵便連合加盟25年記念の官製絵はがきが発行されて人気を呼んだという。(平凡社『世界大百科事典』「えはがき」山田
和子)この絵葉書は、裏面が分割をされておらず、たしかに1899年の古さを証明している。商館時計の、時代の雰囲気である。)
Thanks
Mr.J&L!&Okawaさん *J&Lさんに紹介して頂いた、大川展功氏(「世界の腕時計」『商館時計蒐集綺談』)を参考にさせていただいた。後日、大川さんと6時間にもわたってお話しする機会が与えられた。その迫力のコレクションとお話しに感動した。私のコレクションは・・ケシツブに過ぎない。